江戸の殉教者・隠れキリシタン

1549年のフランシスコ・ザビエル来日後、僅か60年のあいだにカトリックの人口は約30〜40万人以上にまでに広がったと言われている。ここでは、殉教と隠れキリシタンについて触れる。

 

 

 

はじめに

1613年に禁教令が敷かれたあと、カトリックへの信仰の弾圧がはじまる。その中でも、最後まで信仰を貫いた人々、それが殉教者だ。彼らは、いつの時代も私たちを「強い信仰」に導く証人たちであり。その中には、聖人もいる。

 

 

また、禁教令下も信仰を守るため、その形を変えて信仰を受け継いだ人々が、「隠れキリシタン」と呼ばれている。世界的にみても特異なケースで、日本独自の発展を遂げた信仰・文化のカタチである。

 

 

1. 歴史と概要

ザビエルが1549年に初めて日本の地を踏んでから、僅か60年間で、カトリックのクリスチャンの数は約30〜40万人までに広がりました。


しかし、1613年に禁教令が敷かれ、以後カトリックへの信仰の弾圧がはじまります。その中でも、最後まで信仰を貫いた人々、それが殉教者です。


実は日本各地域にカトリックの殉教者がいることが、各調査などから明らかになっています。その中でも、有名な聖人(殉教者) そして殉教地を紹介します。

▶︎日本のカトリック殉教地

▶︎日本の聖人 (殉教者)

▶︎江戸の大殉教

http://www.catakanawa.com/about/edojun/index.html

 

2-1.江戸(東京) の殉教者

江戸の殉教地として知られているのは、札の辻、現在の品川区にある場所。

 

1623年、徳川家光によって宣教師を含む50名が、市中引き回しの上、札の辻で火刑に処された。その後、数年にわたり江戸全体では2000名近くの人が殉教したと言われている。2007年には、教皇ベネディクト16世によって、江戸の殉教者188名が列福された。

▶︎カトリック高輪教会へ

 

▶︎福者 ペトロ・カスイ岐部

ペトロ・カスイ岐部神父の生涯 高木一雄著 | カトリック東京大司教区 ウェブサイト

 

▶︎福者 ジョアン原主水

https://tokyo.catholic.jp/archdiocese/outline/pilgrimage/358/

 

2-2.26聖人の殉教 (長崎)

1597年2月5日豊臣秀吉の命により、長崎西坂の丘で磔刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行なわれたのは、これが初めてであった。ぺトロ宣教師はじめ6名の外国人と、パウロ三木ら20人の日本人信徒だが、12-13歳の少年2人(ルドビコ茨木、アントニオ小崎)や途中加わった殉教者2名もいた。 

26人の処刑後キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れ長崎の教会は破壊され小ローマと呼ばれた町並みは消された。殉教した26人は、特に貧しい人や病人たちの世話等を実践してた人達で人々に愛を与える信仰の灯を絶やしては成らないと、自ら尊い犠牲になることを受け入れた。彼等にとって殉教は信仰を生かすための生き方として喜びであった。26聖人は日本では大浦天主堂に捧げられたが、1862年に列聖されたため、西洋では聖パウロ三木と仲間たちと呼ばれ世界各地の教会にも捧げられ、日本で消えかけた歴史を世界は記憶していた。 

出典:Wikipedia,女子パウロ会Laudate

 

▶︎日本二十六聖人記念館

https://m.facebook.com/26martyrs


3.日本の殉教者


[ルドビコ茨木]

刑場に着くと自分の十字架がどれかを役人に尋ね、一番小さなのに近づき口づけをした。また処刑の総責任者であった寺沢半三郎は最初の面会の際にキリスト教を捨てれば養子として迎える旨を打診したとされる。そして処刑の一部始終を検分した後、焦燥して涙を流してその場を立ち去ったとされる。 

 

アントニオ小崎

十字架にかけられた直後に両親が改宗するよう懇願するも逆に入信を勧めたとされる。並んで十字架にかけられた二人は高らかに讃美歌を歌い始めたとされている。 

 

パウロ三木

私は何の罪も犯したわけではございません。ただイエスキリストの福音を述べ伝え、その教えを広めたいという理由だけで殺されるのです。----ただ私の切に願いまするのは秀吉様をはじめ全ての日本人がイエスキリストを信じて救いを受け、キリシタンとおなりになることでございますとの説教を4000人の民衆に向け始めた。 

出典:Wikipedia,女子パウロ会Laudate

 

ペトロカスイ岐部

 

4. 隠れキリシタン

江戸幕府が禁教令を布告しキリスト教を弾圧した後も密かに信仰を持ち続けた信者を指す言葉。①強制改宗により仏教と見せかけキリスト教を偽装棄した信者②1873年の禁教令解除後も江戸時代の秘教形態を守りカトリック教会に戻らない信者に大別されるが一般には両者の区別はせずに呼ぶ。長崎で最初にキリスト教が布教された平戸では潜伏キリシタンとも呼ばれ信仰を守り抜いたが、世界遺産にも登録された長崎と天草地方に跡を残している。幕末の頃から、鎖国してた一方で海外との交易が活発化し、それに伴い宣教師も来日するように成ると、明治維新政府の態度に海外諸国から非難が上がり、1873年明治政府はキリスト教を認めるに至った。開国により来日した宣教師と潜伏キリシタン大浦天主堂で出会い(信徒発見)、その後各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触によって転機が訪れカトリックに復帰する者、神道や仏教に改宗する者に分かれ潜伏は終わりを告げた。250年以上もの間、宣教師不在の中でキリスト教信仰を守り抜いた彼等の信仰は布教当時のキリスト教義理解は薄れ、他宗教や民族信仰とも結び付き変化しながら伝承してたのが本当の姿とされる。しかし2014年フランシスコ教皇は一般謁見演説で彼等のお陰で教会は再び栄えられたとし、日本のキリスト教共同体は隠れていたにもかかわらず強い共同体精神を保った。孤立し隠れていたが常に神の民の一員であり、この歴史から多くの事を学べると声明した。此を受けバチカン教皇庁は彼等は古いキリスト教徒でありキリスト教徒と見なさない理由はないとした。出典:ja.m.wikipedia

 

信仰を隠しながら、地域や家族で守り抜いた人々もいます。隠れキリシタンとも呼ばれています。土着文化と結びつきながら"隠れ" "守った" のです。ミサ=オラショ、マリア様=観音様、パンと葡萄酒=米と酒、神父=村や家族の長...。浦上四番崩れ*まで実に250年もです。

「七代耐え忍べばローマから、パードレがくる」長崎の隠れキリシタンの言葉

 

https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20080508_fudanotuji.php

 

 

 

 

*札の辻: 現在の港区三田

*長崎26聖人の意

*浦上四番崩れ: 隠れキリシタン発見の出来事